「雷撃のつばさ」です。
みなさん、こんにちは。水の心です。
今日は、光人社NF文庫1997年4月発行の世古 孜(せこ つとむ)著「雷撃のつばさ」です。
<画像はウィキペディア天山(航空機)より>
世古氏は、昭和16年(1940年)5月、海軍第16期乙種飛行予科練習生としてスタート。戦争になってから入隊する若者より、少しでも先に有利になればと、そして任期満了後は、旅客機の乗員として「つぶし」が効く、という理由で、早めに入隊されたそうです。
そして昭和19年4月、攻撃252飛行隊として北海道の美幌基地に移動。
<美幌>
爆弾か魚雷の搭載が可能な3人乗りの天山艦上攻撃機で、
飛行甲板への着陸を想定した着陸訓練や、誘導電波による飛行。
目印のない洋上航行の為の、計器飛行、夜間飛行などの厳しい訓練を行います。
必死の訓練は、あまりの疲労から搭乗員、整備員に殉職者が出ます。
そして同年7月には、北方からの攻撃に対応する為、北千島、占守基地で哨戒、索敵、輸送船護衛に従事。
<占守島>
第一章の導入部では、台湾沖航空戦に向けて、彼我の戦力比較、日本海軍航空機の総戦力を分析し、なにやら難しいのですが、読んでいくと、ちょっとづつ、当時の海軍部隊の中に自分もいるかの様に、引き込まれていきます。
また、読んで驚く事も多く、
渡洋航空作戦の際、戦闘機、一部の攻撃機は、洋上航法(計器と地図を使い目的地まで飛行する事)が出来ない事でした。
それが出来る攻撃機や偵察機による水先案内が必要なのだそうです。
更に、航空機は「道のり」=「速さ」×「時間」の公式や多くの計算法を使い、到着時間、燃費、方角等をいつも確認修正しながら飛んでいる、という事もわかりました。
著者の世古氏は、かなりの理論家で、移動時、戦闘時の分析に、それらを利用して攻略法を編み出してから、対処します。
そして、その解説は、読者にもとてもわかりやすく伝わります。
(他の戦記物にもあまり載っていない事柄、水晶発振子、一会戦主義、航空神経症なども書かれており、参考になりました)
社会に出てから、人にモノを教えるのが上手い人は、熟達していて、その上、頭が良い、と聞いた事があります。
購入した光人社の戦記シリーズの中でも、その経験の豊富さ、文章の読みやすさは上位だと思います。
そして昭和19年10月12日午前8時過ぎ、世古氏の隊は、遂に台湾沖航空戦への参加の為、北千島の占守基地から、九州は鹿屋基地への移動を命じられます。
<鹿屋>
14日、台湾沖航空戦に参加。
第一次、第二次の攻撃隊合わせ、460機超で出撃しますが、その航空機の運用方法で、非常な焦燥感を感じたそうです。
<台湾>
広い海の上で、偵察機を飛ばして索敵し、攻撃目標を発見後、
そこに本隊が来るまでの時間のロスや、連絡方法。
また異なる機種の混成部隊の場合、部隊間の意思疎通、各人の操縦能力、機体最高速度の差。
最悪、見失った後の段どりなどが、全く計画されていなかったそうです。
テストは100点満点なのに、肝心の実戦0点負け続けという、硬直した、国家教育の欠点を実感し、これを批難しています。
そうするうち敵艦発見。魚雷攻撃を開始。
世古氏は、米軍がレーダーによる射撃管制システムを構築している事を、既に知っており、その攻略法を編み出していました。
<28mm対空機銃wikipediaから>
米艦は、日本機をレーダーで捕捉して位置を計算し、各砲塔に伝え、砲撃開始。
その計算伝達する間に、日本機が移動していれば、発射された弾丸は、元いた空間を通過するだけだろう。
レーダーはランダムな未来位置の予測が出来ない。
という予想から、世古氏は照射されるレーダー波から隠れる為に、水面ギリギリを飛行しながら、5秒間隔で機体を左右に移動、加速減速を繰り返すという、その攻略法を実行に移します。
この発見、攻撃開始から接近、魚雷投下、敵艦から逃げ切るまでのシーンは、非常に緊迫した記録です。
結果、32機、隊員96人が、未帰還、戦死。
パイロット養成期間3年半。かかる費用数百億円。それが一瞬の交戦で全滅。
そのうち国民は疲弊して、日本の国は戦いに敗れてしまう。
「こんな馬鹿なことがあってよいものか」
と最大の航空戦が終わった感想を述べています。
そんな中、隊長機は、何とか沖縄小禄基地に帰還しており、そこで隊長は言います。
「こんな馬鹿な戦争ってあるもんか」
<沖縄小禄>
隊長以下この攻撃隊は、前述の美幌基地で、薄暮攻撃・・・夕暮れ時の、薄暗い時を専門として必死の訓練を行っていた。
が、それを生かさず白昼攻撃をする事によって、隊が全滅してしまった。
「日本は戦争に負ける。俺はもう参謀を信用せん」
とエリートである海軍兵学校出身の士官が、してはならない上層部批判をし、失った隊員達を悲しみます。
また、真珠湾攻撃で「われ奇襲に成功せり」と電報を打った有名な機上通信員、平川清 飛曹長が、北千島から呼ばれており、
国宝級の経験者を前線に出すという事は、もう後がない、という事を世古氏は痛感します。
それから台湾の台北から台中、18日には、フィリピン・クラーク基地に移動。
<フィリッピン・クラーク飛行場>
そして、世古氏は「特攻」に関して、目の前で歴史上の出来事に立ち会います。
台湾沖航空戦を生き残った99式艦上爆撃機の乗組員、児玉兵曹。
彼が、面会に来てくれ、そこで彼に初の特攻が命令された事を知ります。
「ここで、特攻に行く人は、国や国民のために自分の身を犠牲にしてかえりみない人々である。
そうでない人々が生き残ったとするならば、これからの日本は、自分のことのみを考えて、国や国民のことをかえりみない人々の集まりとなって、大変な事になる。
特攻に行こうと思う人々こそ、生き残って、敗れた後の日本を新しくつくりなおしてもらわなければならない人々である」
と世古氏は感じます。
児玉兵曹の機体を見に行くと、250㌔爆弾が安全装置を外した危険な状態で、麻縄で機体に括り付けてあるのを目撃します。
特攻を拒否することを勧めながら
「国とは決して国民のためにあるものではなく、
国と国民は別で、国は国自身のために国を守り、国民はその国のために奉仕されるだけではないか。
そこのところをよく考えて戦わないと、何のために死んでゆくのかわからなくなってしまうぞ」と世古氏は語ります。
が、その後、児玉兵曹は、特攻に出撃。
当日、見送りに出た世古氏は、指揮所の2階に立つ、第二航空艦隊司令長官福留中将と、特攻の生みの親、大西中将とを目にします。
<福留繁wikipediaから>
福留中将は特攻に最後まで反対しており、反目しているのか、みなに挨拶の後、横を向き、大西中将に尻を向けます。
その異様さ。
そして、発進する99艦爆隊の隊長 団野中尉の悲壮な離陸。
これもまた、異様な光景。
その後、レイテ湾攻撃の為に、フィリピンのレガスピに海軍機が集結。
が、夜間着陸の衝突事故、翌朝の空襲により、総182機が、全滅。
これも目の前で目撃。
続いて、魚雷攻撃に出る、60機の一式陸攻爆撃機、搭乗員480名の出撃戦死。
これも目撃。
「私は日本の国を指導する人々の愛国心という物ものを、深く疑っていた。
彼らは国から教えられたとおりのことを、習い覚えたとおりのことを型通りにやっているだけのことである。
国は自分に都合のよいことだけしか教えなかった。だから、その範囲を超える敵に出会うと、戦う方法が無かった。
国が定めた思考形態の中で、それに合致した者が成績の優秀な者であり、その人間が習い覚えたことをやればやるほど、日本丸は片舷片舷へとかたむいてしまった」
と書かれています。
海軍航空隊が、台湾沖の10月12日から10日余りで受けた被害は、560機、1,120人超の戦死。
ヒシヒシと迫る、戦果のない自滅攻撃の始まった軍隊で、
キリスト教徒である世古氏は、モーゼの十戒と言われる「戒め」を実践します。
その上で死んでしまうなら、それは「さだめ」であると。
だが、戦いから逃げる卑怯な事だけはすまいと、決意します。
<天山艦攻>
そして11月1日に「多号第二次輸送作戦」が開始。
関東軍20万人を、レイテ島オルモックに上陸させる、その援護として湾内の敵艦船を攻撃。
<レイテ島>
これが世古氏、最後の出撃となり、敵戦闘機の襲撃を受け、陸軍病院の近くに不時着。右下腿盲貫銃創、複雑骨折、歯の欠損、同乗の秋元、堀坂兵曹は戦死。
という所で、この本はプッツリ終わります。
多分、飛ぶことが出来なくなった世古氏は、死んだのと同様で、書く事が無くなったのだろうと思います。
当時、最先端の花形職業、飛行兵になった20代の若者は、その明晰な頭脳で、当時の日本の上層部の欠陥をこの本の中で表していきます。
世古氏からの現代への警告ともとれる指摘。
これらを読むと、どうにも最近起きている、現代日本の腐敗、末期っぷりと、かなり重なっていると思います。
そこがどうしても、私を引き寄せ、共感させてしまうのです。
71年前の若者が、最前線で目撃した、日本の近代歴史を追体験出来る、この作品。諸兄も、一度読まれてみてはいかが、と思います。
それでは、次の更新まで!