「航空テクノロジーの戦い」です。
みなさん、こんにちわ。水の心です。
今日は、光人社NF文庫、1996年発行、碇義朗著
「海軍空技廠」技術者とその周辺の人々の物語
です。
この本の舞台である「海軍空技廠」は、
昭和7年(1932年)追浜飛行場に隣接設置され、
昭和15年(1940年)に「海軍航空技術廠」と、改称、改変。
昭和20年(1945年)に「第一技術廠」「第二技術廠」に改変。
海軍航空機の、研究開発、試験、調査、設計、生産まで行った、
とあります。
その海軍空技廠での、当時最先端の航空技術と、そこに関係した人々の話を、
陸軍航空技術研究所に在籍し、
その後、航空、自動車研究者、作家となった
「碇義朗」氏が取材し、20章にまとめた本です。
前回の記事で、碇氏の著作「戦闘機入門」を紹介していますので、
こちらの方も参考になさってください。
この本が面白いのは、現代の車にも使われている技術と、
当時の航空機の研究が、重なっているところがあり、
車の仕組みがわかる人ならば、更に楽しめるという所です。
はるか昔、私はメンテ系の仕事をしており、
そこでは、1気筒から、2気筒、3気筒、4気筒までのエンジンを点検する、
という業務についていました。
エンジンオイルは真っ黒に汚れ、フラッシングを行った後、消耗部品を交換し、
タペット調節まで行いました。
私は、全くの普通科高校出身で、バイクのオイル、プラグ交換程度ならしましたが、エンジンの中など開けた事はありません。
その仕事についても、1ヵ月以上エンジンには触る事が出来ず、
なんとか教えてもらって、やっと一人で、
点検に行って帰る事が出来る様になりました。
4気筒エンジンがグワングワン回る中、吸気系のパイプからエンジンクリーナーを吸わせたり、クーラントの交換中に噴き出したクーラントを頭からかぶったり、
コマを間違わない様、慎重にタイミングベルトを交換したりと、
一歩間違うと手がもげたり、落下死する様な危険もありましたが、
気が張っていたのか、運よく大きなケガには合いませんでした。
しかし、それまで75㌔以上あった体重が、63㌔まで落ち、
毎日5時30分には出勤し、帰りは8時9時を回る様な時もあり、
目は吊り上がり、人相が変わってしまう程の激務でした。
そんなこともあり、自然とエンジン関係の仕組みがわかる様になり、
今までだと、理解できなかった用語、単語などが、
イメージできるようになりました。
知識というのはとても大事な事です。
非常に苦しい思いをしましたが、機械の基本を知る事が出来ました。
この本では、当時の軍用機に使う、海軍空技廠の扱っていた研究が、
多岐に渡り、細かく載っており、車に関する知識があれば、
ますます面白く読めると思います。
例えば、18章「ばねが取りもった四十八年の縁」では、
大戦前日本では、エンジンの給排気用バルブの、開け閉めをするバネ
(バルブ・スプリング)の材料の「ピアノ線」を、
スウェーデンからの輸入に頼っていたが、
開戦時には、日本での「ピアノ線」の生産が出来るようになった事。
日本本土爆撃行で、撃墜したB-29が、米国の最新技術の塊で、
技術者達は、それを研究材料にした事。
しかし恐ろしい事に、それがどういう仕組みで製造された物か、
わからないものもあった事。
墜落したB-29 のエンジンの「弁バネ」(バルブ・スプリング)は、
日本で作っている「弁バネ」とは違い「表面が鈍いナシ地をしていた」とあり、
その意味が判明したのは、戦後になってからだった事。
それは「ショット・ピーニング」という技術を使う事によって、
折れにくいバネの製造を、アメリカは既に完成させていた、
という恐ろしいエピソード。
1945年8月1日、20㍉機関砲の筒内爆発というアクシデントにより、
菅野直海軍大尉が、戦闘中に行方不明。
筒内爆発の原因は、機関砲の「複座バネ」が、ヘタってしまった事による、
砲内部の装填ミスによる、砲弾の玉突きが原因で、
陸軍航空機でも、筒内爆発による事故が発生していた事。
戦争末期に陸、海軍、民間共同の研究委員会が発足し、
前述の「複座バネ」の改良もあがったが、結局敗戦まで、解決出来無かった事。
戦後になり、日本の復興の為に近代工業化を進める為、
空技廠の多くの研究者達が、ばね会社をはじめ、各自動車会社に就職していた事。
航空機の最先端の技術が、民間に転用され、発展していたことが、興味深く
書かれています。
「日本で最高の設備と最大の技術者集団をかかえ、
膨大な国家予算を駆使して、飛行機やエンジンの開発にとどまらず、
材料の顕微鏡的研究から核分裂までの
ありとあらゆる研究や開発を手がけた空技廠が遺したものは、
きわめて大きい。」
「敗戦ととに空技廠は消滅し、その技術や研究の成果も無に帰したが、
人は残った。それはあたかも戦後の技術日本建設のための温床として、
人材育成の役割を果たしたといっていいのではないか。」
と碇氏は、まとめています。
また、当時の空技廠に勤めていた人達は、戦時でも空技廠独特の空気があり、
とても良い組織だったといい、今でも誇りに思っているのだ、とありました。
もしかすると、海軍空技廠は、アポロ計画時代、脚光を浴びていた
「NASA」の様な、時代の最先端を行く組織で、花形でもあり、
軍隊の中でも、かなり独自の雰囲気を持った組織だったのか?と推測しました。
どうも、戦記物というよりは、技術本に近く、
戦中、戦後と技術にまつわる研究者達の戦いでもある、面白い本と思うので、
興味のある方は一読をお勧めします。
それでは、次の更新まで!