チャレンジなので。懐古中年、Gose on!

無職を続ける、好き嫌いの激しい中年が、メインブログの裏で、こっそりチャレンジを続けて行くブログ。

「零戦よもやま物語」です。

  みなさん、こんにちわ。水の心です。

今日は、光人社NF文庫1995年発行編者高野弘

零戦よもやま物語」零戦アラカルトです。

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  この本は、軍事雑誌の「丸」にて、昭和45年2月号から昭和57年8月号まで掲載された「零戦とわたし」をまとめたものです。

戦時中、零戦に関わった多くの海軍、陸軍、軍属、民間人、250人分もの思い出が書かれています。

 その中には、坂井三郎氏、志賀淑雄氏のエースや、豊田穣氏、柳田邦男氏の作家、零戦の設計をした、堀越二郎氏の零戦に関する著作からの収録もあります。

 

 その数多くの身近で印象的な、エピソードが並ぶ中、目を引くものを挙げてみます。

 

 「総員ドンといえ」

ミッドウェー海戦時、ミッドウェー航空隊基地要員として、敵前上陸する為、寄せ集めの船団に乗船、移送中の話。

 船には木製の擬装砲が付いていたが、敵機襲来のたび、甲板士官が兵隊を集め「総員ドンといえ」の号令があり、おどろいた、との元陸軍軍曹からの投稿。

そして、船団は突然Uターン、ミッドウェイ海戦で大打撃をこうむった事を、トラック島に逃げ込む途中で聞いた、とあります。

 

 しかし、手持ちの小銃や機関銃で対空射撃した方が、まだ効果がありそうなものですが、当時の兵器、物資の不足ぶりと、兵隊が単なる消耗部品扱いだったのだろうか、と考えると恐ろしく思います。

 

 「痛恨の一言」

昭和18年4月18日ブーゲンビル島で、山本五十六長官搭乗機が待ち伏せ襲撃されます。

直後、ブイン飛行場に長官護衛機が飛来、飛行場からも5~6機が急発進。

20分後、長官護衛機の零戦が着陸。

乗員は、長官の到着を尋ね、着いていない事を知ると

「~唇をかみしめ、なんともいえないくやしそうな表情で、力なく「しまった」

 といって~」

と、長官機撃墜という歴史的事象に立ち会った瞬間を、ブイン飛行場の兵器整備員が目撃しています。

 

 「酩酊飛行」

昭和20年、筑波航空隊での飛行兵の話。

ある日、全量アルコール燃料での零戦の試験飛行の命令があり、嫌がる先輩飛行兵達からお鉢が回り、テスト飛行に出発。

特に問題はなく、調子も上々。

が、2日目、突如として異常発生。危うくエンスト直前になりながらも帰投。

 原因は、キャブレターのコルク浮子の塗料が、アルコールで溶け、そのコルクがアルコールを吸収し、油面が上昇、結果、エンジン不良になったとの事。

 

 現在、改良なしで、車にバイオアルコール燃料を使うと、エンジンの樹脂部品や、ゴム部品が溶けて故障してしまう、という話を聞いた事があり、これまた興味深い話がのっています。

 

 「爆装零戦

昭和18年海軍技術廠電気部研究班の勤務者の話で、編隊でやってくるB29に対し、その編隊を崩し、各個撃破する戦法の開発がされていた。

 爆薬を搭載した零戦の外装に、信管に繋いだワイヤを貼り、編隊中央のB29に激突爆発、編隊を崩す、という空中特攻が計画された。

 

 結局、この特攻は、機体の外に長いワイヤで爆弾を垂らし、遠心力で振り回し、B29 編隊内で爆弾を爆破させる方法に変化。

 このような零戦による空中特攻によるB29の撃墜数は、秘密作戦なので、公にはならなかったが、かなりの戦果が上がったのではないか、と推測されています。

 私は、初めてこの本で、この作戦を知りました。驚きの作戦です。

 

 海外での零戦を「zero fighter ww2」で調べると「Aktan Zero、koga's Zero、Aleutian Zero」が出てきました。

何の事かと思ったら、ミッドウェー海戦と同時に行われた、アリューシャン列島攻撃作戦に出撃していた、古賀一飛曹の乗機、零戦21型の事でした。

 対空砲撃で被弾し、緊急着陸したのが、アリューシャン列島のアクタン島で、そのAktanから来ているそうです。

 

 米国にとって、初のほぼ無傷で鹵獲された21型は価値が高く、その後の対日本機の分析に貢献した、とされています。

 

 大きな歴史の流れの中で、零戦は、次世代機の開発が遅れに遅れ、実用2000馬力級エンジンの開発もほぼ失敗。マイナーチェンジを重ねる延命で使用され、兵器的に敗北は仕方ない事だった。

その中で、1942年のこの鹵獲機は、米軍有利の流れをますます加速させた様です。

 

 古賀一飛は、着陸時に事故死。遺体は、移動して埋葬され1953年に発掘、返還。

身元不明者として扱われたため、千鳥ケ淵戦没者墓苑に、無縁仏として埋葬されているそうです。

 

 更に、2015年今年「石塚政秀」氏が、海上自衛隊鹿屋航空基地で、レストアされた零戦のエンジンテストをしたとのニュースがありました。

 

 石塚氏は、在籍していたリアルマッコイズ倒産後、ニュージーランド工場を引継ぎ、2003年ファッションブランド「The FEW」代表に就任、とありました。

(80年代の、フライトジャケットブームの際に、コンバットマガジンで、ホースハイドA2ジャケット等いつも目にしていた、リアルマッコイズの名前ですが、そういういきさつがあったとは思いもよりませんでした)

 

 その石塚氏は、飛行可能な零戦を偶然にも購入する事に成功。

確かな意思で、零戦の里帰りと、日本の空の飛行に奔走され、文化遺産としての維持保管を最終目的としておられます。

 (現在、この零戦アメリカ航空宇宙局の所属機で、里帰り後の組立、調整もアメリカ人の手によるもの。また、現在日本人に「零戦の」飛行免許が無い為に、アメリカ人の飛行士による飛行になるそうです)

 

 エンジンの始動テストには成功した、との2015年7月のニュースはあるのですが、続報が無いので、また近いうちに、テスト飛行等がなされる可能性が高いと思います。

 

 私が小学生の頃は、飛行可能な機体など無く、せいぜい出来の悪い映画のレプリカや、写真でしか見る事が出来なかったと思います。

その後「松本零士氏の零士のメカゾーン2」で、一時帰国した、復元零戦を見る事が出来て、確か、NHKでもニュースになったような気がします。ですが、その時の所有者、飛行士もアメリカ人だったと思います。

 最近、部品の「再生産」による零戦製造企画が米国であるぞ、とういう話をニュースを見たと思います

 

 大戦中の各国戦闘機の中でも、非常に美しい形をしている飛行機で、日本が先進国として、欧米に対して産声を上げた、その象徴だとも思います。

 石塚氏のプロジェクトが成功し、歴史を見る事が出来る事を期待しています。

 それでは、また次の更新まで!