”戦闘機「隼」昭和の名機その栄光と悲劇”です。
みなさん、こんにちは。水の心です。今日は、光人社NF文庫、1995年発行の
”戦闘機「隼」昭和の名機その栄光と悲劇”です。
著者は、技術描写では定評のある「碇 義郎」氏です。
現在「ハヤブサ」といえば、バイクや、宇宙探査機で有名かも知れません。ですが、今から70数年前なら、皆が知っている国産戦闘機の愛称なのでした。
この本は、全九章のうち、第一章から三章までが、隼登場以前、なんとか日本人が、航空兵器の国産化に成功するまでの悪戦苦闘をつづっています。
「隼」戦闘機の強さ、ディテールなどがまるまる一冊書かれているのか、と思ったら、大体半分までが1937年採用の傑作戦闘機「97式戦」の登場に至る道のりの記述です。
<画像は97式戦闘機Wikipediaから>
ですがそれは、世界がまだ手探りで作っていた新兵器のジャンル「戦闘機」についての描写と、中島飛行機株式会社、そして設計者「小山悌」氏の物語でもありました。
そして4章から8章までは、採用された「隼」の活躍。
しかし次第に「隼」は、技術、物量等で、連合国に追い抜かれていきます。
最終章9章では、中島飛行機株式会社として「富嶽」「剣」の企画生産を描き、小山悌氏の戦後を書いて終了します。
当時、人類史上、未開のジャンルだった「航空機」
1914年の第一次世界大戦で登場した「航空兵器」は、当時は信頼性の低い、危険と隣り合わせの、不細工な、機械と布と木の塊でした。
ですが10数年後には、美しい流線型の金属外板の機体を持ち、推力もレシプロ発動機から、ジェットエンジン、そしてロケットモーターになり、音速突破すらも可能になっています。
この異常な開発スピードをみると、戦後米国が、日本の航空兵機産業を根絶やしにしたのもわかる気がします。
作中たびたび出て来る、1937年正式採用の中島飛行機製「97式戦闘機」は、極めて突出した高性能戦闘機で、その影は次世代の「隼」の誕生から、その改良発展の阻害原因にまで、影響を与えています。
本書を読んでいくと「隼」のライバルは、先代モデルの97戦だったのではないか、とも読み取れます。
第3章では、陸上戦で17,000人の死傷者を出したノモンハン事件に触れ、
その97戦を使用した航空戦では、自軍が3~4機の損害に対し、ソ連側に30~40機の損害を与えた大勝だったと書かれています。
が、ソ連側は、日本軍の評価と兵器テストを意図し、戦闘を行っていたフシがあった。
対して日本側は人的損耗、機材の改良も追いつかず、優勢が崩れるのも、時間の問題だった。
97戦のあまりの性能の良さに、陸軍は将来の近代空中戦法と、戦闘機の新しい流れを見過ごす過ちを犯してしまった、と今川一策少将の興味深い談話が書かれています。
ゼロ戦についても、どこかで読んだ戦記物の中で
「あんなに高性能なら(戦争を始めて)使ってみたくなるのも仕方がない」
と書かれていたのを思い出します。
そして続く面白い記述は
「陸軍には、耐久性第一と38式歩兵銃に固執した「砲兵工廠」という”大地主”ががんばっており、航空技術研究所の上部は、その砲兵出身者で占められていた。
そのせいで「隼」の搭載機銃が7.7㎜に決定し(今川少将は、航空搭載機銃は消耗品でも良い、と考えていた)開発を阻害してしまった、という今川少将の記述。
どんなに混乱していても、見えている人は見えているし、進むべき方向もわかっている例でしょうか。
例えば、日米開戦するなら、せめて9㎜拳銃弾(または米軍と同じ弾薬45ACP)を使った、素人でも扱える発射速度の遅い、低コスト省略型サブマシンガンを、召集兵に装備させていれば、南方のジャングル戦が苦労しなかった気がします。
多くのセクショナリズムが、足を強烈に引っ張り、勝てない戦争にしてしまった様です。
また、面白いのが「隼」の開発チームの一人、糸川英夫氏。
昭和53年の円谷SF作品「スターウルフ」の監修を行っています。私子供の頃日曜日に観てました。
そして昭和16年3月、隼50機が完成し、満を持して正式採用。
第64戦隊隊長、加藤建夫少佐に率いられ、動き出す隼。
<画像は加藤建夫Wikipediaから>
時代も激しく動き始めます。
実戦配備後、その強さは当然でしたが、無線の不調、空中分解事故、ギリギリまで削った、機体強度の脆弱さも目立ち、小さなマイナーチェンジも行っていました。
そして遂に米国との開戦。
パレンバン降下作戦参加、ジャワ航空撃滅戦での勝利。
開戦初期は、大勝利が続きます。
<画像は一式戦闘機(隼)Wikipediaから>
「いまでも、隼には、東京から鹿児島を攻撃して空中戦をおこない、また、東京に帰ってくる「あし」があったといったら、誰もがびっくりするだろう。」
「六時間、七時間も操縦席にすわりづめで尻のいたさをこらえながら、
不完全な気密装置と、お粗末な酸素吸入装置で、七千メートルの寒空に、
ガタガタふるえて攻撃をつづけた若者たちの旺盛な体力と気力は、
現在の進歩した航空機に乗っている人たちには、
想像もつかない一種の冒険ーいや、むちゃくちゃかもしれない。
~(その航続距離の長さから)地上の侵攻作戦は成功し、大戦前半の優位は確定したといえる」
(航空ファン1963年10月号「隼と疾風」黒江保彦)本文中178ページ
人間を犠牲にして作りだしている勝利。
飛行兵が全てF1レーサーの様です。徴兵による総力戦なのに替えが効かない。
そして、1942年ドゥーリトル隊による初本土爆撃。
加藤戦隊長の戦死。ミッドウェイの空母、機体、パイロットの損失。
アクタン島零戦の鹵獲。
次第に、何かが迫ってくる様です。
そんな中、隼は武装を12.7㎜に強化。
また面白い記述は、英軍の戦闘機スピットファイア、ハリケーンは
「ユニヴァーサル、ウィング方式」を設計時に採用しており、その搭載機銃の種類、数の変更を、機銃搭載部分の「翼の交換」によって、可能にしていた点で、確かに多様性を持った優れた設計だと思います。
それに比べ、隼は設計時点で、大口径機関砲や、翼内機銃を搭載出来ず、ここでも限界が来ていました。
フト思ったのは、ドイツの急降下爆撃機スツーカG型の翼下に吊り下げる形の、増加武装ガンポッド。日本では開発されなかったのかしらん?と思います。
隼には増槽が付く位だし、そんなに難しい発射機構じゃない気がするけれども・・・。
航続距離を殺す事になるからダメだったのか?とも考えてしまいます。
1年で戦隊長が3名戦死する激戦。
増強していく敵機600機以上に対して、15~18機でカバーせざるを得ない状況。
そんな中、ラバウル方面での戦力不足を補う為、精鋭の隼隊が投入される。
隼隊は不可能に近い海上飛行をこなし、太平洋上の船団護衛や、ガ島撤退、ポートダーウィン空襲に参加。
対戦相手は、英スピットにハリケーン、モスキート偵察機。米P38にP40、P47サンダーボルトに、P51D。
歴史上の英米代表機と総当たりです。
爆撃機とも、対峙し、
A20、B17。B24は、撃墜出来たが、とうとうB29の出現。
<画像はB29Wikipediaから>
それらに対応する為改良が始まり、隼Ⅲ型で、水エタノール噴射での速度アップを図り、四型は防空戦闘機として高々度対応のターボ付きとして開発。
<画像はキ87Wikipediaから>
<画像はキ94Wikipediaから>
しかし史実通り、全ては敗戦に向かって進んでいきます。
ノモンハン事件の教訓は生かされず、今川少将の予見は現実になっていきました。
敗戦後、中島飛行機株式会社は分割され、社員は出社禁止。
取締役となっていた43歳の小山悌氏は、追放令を受ける。
そして考えた結果、林業機械を作る岩手富士産業株式会社の取締役に就任。
60歳で農学博士号を授与、とあり、
終戦から11年後の昭和31年、その林業の米国視察旅行中、小山氏を中島飛行機技師長小山悌だと知った、米国人機長とのエピソードで、本作は終了します。
軍パイロット側からではなく、企業側からの取材が中心で、
隼の実力や栄光は読者は既知であるという前提で、軍民のプロジェクトに主眼を当て、日本航空産業界の黎明から終息までを、隼の生涯と共に描いたのが、本作だと思います。
難しかったりするのですが、一度は読まれてはいかが、と思います。
では、次の更新まで!