昭和53年の 「映画 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」です。
みなさん、こんにちわ。水の心です。
今日は昭和53年の「映画 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」です。
1978年、東映系で公開されたアニメ映画で、当時小学生だった私は、あの宇宙戦艦ヤマトの続編と聞いて、どうしても観たくて親に無理を言い、その日姉に連れて行ってもらう事になりました。
宇宙戦艦ヤマトは、当時、大ブームになったSFアニメです。
子供番組の「まんが映画」が大ヒットするなど考えられない時代でした。
TVシリーズ1作目は、帝国海軍の残り香漂うアナクロ的SF作品で、若者達の冒険成長物語でもありました。
当時の私は、今とあまり変わらず「零戦は52型なのじゃーッ!」などという子供だったので、スペースロマンより、ミリタリー要素に惹かれていました。
そしてその劇場で目の当たりにしたのは、次々と戦死するおなじみのキャラクター達。
あまりにショッキングで、悲しいのですが、泣いて良いものやら、悪いものやらわからず、姉の顔と画面を交互に見ながら、どうしたらいいのか非常に戸惑ったおぼえがあります。
カッコイイ艦隊戦や艦載機によるドッグファイト。勇ましい勝利を期待していた私は、呆然自失で帰途につきました。
正直、子供の期待を裏切るストーリーには「やられた!」としか言いようがありません。
その日買ったパンフレットは繰り返して読み、宮川泰氏の78年のサントラLPも購入。
今の様に、ビデオやDVDがあるわけはないので、パンフを見ながらレコードを聴いて、映画を思い出すのですが、いつも悲しく暗くなる時間でした。
あの勇壮な主題歌のテーマが聴きたかったのですが、ヤマトのテーマは、1曲目<序曲>に出て来るのみ。
それもチラッとだけ。
小学生には難し過ぎる、宮川泰氏の美しいが物悲しいメロディで構成された、アルバムなのでした。
そんな「さらば」ブームは、TVにも波及。
沢田研二氏の唄う主題歌「ヤマトより愛をこめて」は、TBSの黒柳徹子氏と久米宏氏司会のザ・ベストテン(歌番組)で、2位にランクイン。
沢田氏は、感情を込め、曲の最後に涙をポロリと流す、という劇的なパフォーマンスをしたのを憶えています。
(この曲は、お葬式の出棺の時にかかる音楽と同じ位置づけだと思います)
映画の公開時期は丁度夏休みで、大人の観客も多かったのだと思います。
しばらくすると、地方新聞の読者の投書欄に「さらば」についての問題提起が起きました。やはり「最後の特攻」についての否定意見だったと思います。
私はヤマトを皆が知り、それについて話をしている事の方がうれしく、それを読んでいました。
結局、何回か特攻の是非に関する投書が載り、夏が終わるころには、次第に消えて忘れられていったのでした。
私の方はと言うと、野村トーイのヤマトにアンドロメダ、デスラー艦のプラモデルを購入。自分で初めて塗装したりして、たまにミクロマンで遊んでいました。
そして数か月後。
TVで始まった「宇宙戦艦ヤマト2」!
所々映画からの映像も使われており、否が応でも期待は膨らみます。
圧倒的なガトランティス帝国の前に、為す術もなく我々のヤマトは悲劇的な最期を迎え、伝説となる。
最終回が近くなるにつれ、私は、その恐ろしさに、気分が高まっていきました。
「皆が悲しみの衝撃を受けるのだ!」
ところが
・・・なんだこれ?
テレサ裸でないし、
島戻ってきたけども。
なんだ?なんかほとんど生き残ってる?
映画館で観た、壮絶な戦闘と死。
強大な暴力に対する無力感と絶望。
そして命を賭した攻撃。
そんなものは、ありませんでした。
なぜこうなってしまったのか、疑問に思いつつ、私は中学生になっていきました。
その答えを知るには30年以上かかりましたが、現在ネットでは簡単に調べられます。
結局、大人ってヒドイね!
というのが感想です。
その後ヤマトは、雑誌OUTや、ファンロードのパロディネタになり、これでもかと続いていくシリーズは、私を含め、周りからあきられていきました。
数百年未来の科学力を持つ侵略者に対して、勇気と知恵で乗り切るという、大逆転物語。
無敵の科学力と強大さで「ドイツ」はひざまずき、世界覇権の為、多くの国々を侵略し破壊していきます。
「シン・ゴジラ」の庵野秀明氏の様に、1作目を愛する人は、機転も利かせず、情緒も無く、死闘に明け暮れる「さらば」は、
ヤマトではない!
とあまり評判がよろしくありません。
なぜなら1作目は「必ず帰るから」が目的だから。
「さらば」は「宇宙に、平和と愛を伝える、その為の命」を使って戦う「愛の戦士たち」の物語。
いつか見た護国の若者の死。
その悲劇性と自己犠牲に、つい古代を重ねてしまいます。
1作目と「さらば」は、まったくテーマが違うのです。
(少し思うのは、戦艦大和をヤマトの下敷きにしてしまった事。
空想SFに、ついこの間の戦争の記憶を入れてしまった事で、そこに少し隙間が出来てしまった。「さらば」はこの隙間が特に目立った気がします)
また、あまり論争の話題にはならないのですが、アンドロメダに象徴される科学至上主義の蔓延。
が所詮それは「イスカンダル」からの借物。1年前のガミラス戦での滅亡へのカウントダウンから一転、戦勝した人類のおごり。
これに対する古代達、現場からの反発。
この方が重視されるべき点の様な気がします。
これは戦後1970年代末期「戦時中の記憶」をかなぐり捨て、米国資本主義に踊る現代日本のあり方を批判していると思います。
劇中、怒涛のクライマックス。レリーフから現れる沖田艦長の言葉。
もう古代は「あの世」に半分行っています。
沖田艦長は、危機に対する「命」の大切さを古代に語ります。
武器が無くなっても、命をもって対抗しようとする古代は、
あの判断をする事で、ある種の「神様」になりました。
島達には「人間」として現実を生きる事を勧めている。
「貴方の中に勇気と愛の姿を見せて貰いました。~私はこの日を待っていたのです。」と語るテレサは、一種の宇宙教の伝道師でもあり教徒です。
第一艦橋には、死んだ者、脱出した者達が、ごちゃまぜの幻となって古代の前に現れます。ここまで見てしまうと、古代はもう帰って来れません。
雪まで復活し、みな違う世界の住人になっています。
(ファンが指摘する、最後の攻撃をしないズォーダー大帝。不思議ですが、映画に勢いがあるのであまり問題になりません。)
そして「さらば」を意味する最後の字幕。
悲しくも崇高な思い出となってしまったヤマトと、戦士達の愛の偉大さを噛みしめて、観客はカタルシスを味わうのです。
・・・古代は、早まった、のかも知れない。
「ヤマト2」を作った松本零士氏の想いと同じく。
古代を殺してはいけなかった、のかも知れない。
古代は沖田艦長の言葉を間違って受け取ってしまった、のかも知れない。
テレサは現れず、ズォーダーの下で、文明を取り上げられ、原始人の様に後退し、一日一食の雑穀だけの奴隷になり、生きていかねばならなかった、
のかも知れない。
中年になった私は、古代は、もう少し生きてみても良かったのかも知れない、とふと思いました。
だがもしかすると、古代が生存降伏した後、超巨大戦艦の砲撃で地球は壊滅し、先遣隊の虐殺で、地球人は30分で「絶滅」するのかも知れない。
そうであれば、古代のあの判断は選択肢として非常に「アリ」だ。
地球人類最終最後の攻撃なら、その権利はあると思う。
古代の最後の突撃を批判する人は、問答無用で老若男女、全地球人が虐殺されていく映像を30分見る事を想像しただろうか。
その後私は、木村拓哉主演「SPACE BATTLESHIPヤマト」を見て愕然とし、「2199」は数話しか見ておらず、そこで何が起きたか詳しくわからない。
なぜなら大好きなヤマトは「さらば」で終わってしまったのだから。
と観た人それぞれに思い入れの深い、難しい映画なのですが、
監督の舛田利雄氏の戦争映画「二百三高地」を観てしまうと「さらば」も同一線上にある様な気がします。
主演のあおい輝彦氏から受ける、苦しみや痛みが同じものだと思うのです。
子供が初めて観る戦争映画。
「さらば」を観て、爽快感を感じる者はいないし、ズォーダーに勝った古代を歓声上げて、喜ぶ映画でもない。
奪われた大事な物、虚しさ、衝撃を感じとればいいのだ、と思います。
これが、戦争映画なのだ、と思いました。
現在「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」が製作決定。
私があの時見た、あの衝撃。
平成の子供達を、悲しみのどん底に叩き落とし「戦争の悲惨さ」を心に刻みつけて
欲しいと思っています。
<それから30余年後、中年になった私が遂に神様に会う!こちらの記事もどうぞ!>
それでは、次の更新まで!